ヒコロヒーの本名は?実家は?芸名の由来は?非公開の理由も深掘り!基本プロフィールも紹介!

2022年6月15日

ヒコロヒーのプロフィール

ここでは、ヒコロヒーのプロフィールをご紹介する。

ニックネーム 国民的地元のツレ
生年月日   1989年10月15日(32歳)
出身地    愛媛県
血液型    AB型
最終学歴   近畿大学文芸学部芸術学科舞台芸術部中退
出身     松竹芸能大阪養成所
芸風     一人コント
事務所    松竹芸能
「ウィキペディア(Wikipedia)」より引用。

ヒコロヒーは愛媛県出身、1989年生まれの32歳である。

高校卒業後、大阪の近畿大学文芸学部芸術学科に進学している。

ヒコロヒーは進学を考えてはいなかったが、親から説得され大学に進学した。

大学ではサークルに入るつもりはなかったが、イケメンの先輩がいたので文化会落語講談研究会に入った。霜降り明星の2人とは学生時代からの知り合いである。

しかし、文化会落語講談研究会での活動はほとんどなかった。

ヒコロヒーは大学2年の大学祭で、文化会落語講談研究会の先輩からお笑いイベントに出演するように言われ出演した。

ヒコロヒーはそのイベントで落語ベースの一人コントを演じた。

この時のコントを見た松竹芸能のマネージャーにスカウトされ、特待生として授業料免除で松竹芸能大阪養成所入りが決まった。

養成所に入所はしたが、芸人になるつもりはなかった。しかし、ヒコロヒーは時期的に就職活動をする必要はあった。

ヒコロヒーは大学卒業後の進路として、映画かラジオ番組などの製作現場の仕事を考えていた。

ヒコロヒーは、松竹芸能大阪養成所は映画を製作しているので就職に有利なると判断した。

松竹芸能大阪養成所時代は、きつね、Aマッソと交友があり仲が良かった。

しかし、松竹芸能大阪養成所の講師とのトラブルが原因で、ヒコロヒーは事務所ライブに出られなくなったこともあった。

ヒコロヒーは松竹芸能大阪養成所卒業後、松竹芸能(大阪)の所属となる。

ヒコロヒーは大阪を拠点にして活動を開始、道頓堀角座などで月に15本から20本のライブ出演をこなしていた。

ヒコロヒーは2013年12月1日道頓堀角座で初の単独ライブ「ヒッコロコメディショー」を行った。

ヒコロヒーは芸人を続けることを決めたわけでもなく、大学を2013年春に中退した。

ヒコロヒーは後に「単位も取れないから、大学はずっと辞めたいと思っていて、(芸人活動をしていることから)

お笑いという夢が見つかったということでお笑いで頑張りたいことを理由に大学を辞めた感じだった」と語った。

ヒコロヒーは「インディーズライブでヒューマン中村、三浦マイルド、おいでやす小田ら同じピン芸人の先輩たちと共演するうちに、ピン芸人の面白さや楽しさや、大変だけど自由なこと、などの魅力を感じたのかな」と話している。

2014年4月ヒコロヒーは、大阪での3年の活動を一旦終えて上京し、松竹芸能東京の所属となった。

ヒコロヒーは、IPPONグランプリ(フジテレビ系)本戦への出場枠を賭け第11回「IPPONスカウト」に初出演した。MCのバカリズム、小木博明(おぎやはぎ)、設楽統(バナナマン)らから高く評価されている。

ヒコロヒーは、第11回「IPPONスカウト」(2014年5月17日放送)では最終決勝の5人の解答者に選出された。

しかし、ヒコロヒーは「IPPONグランプリ」の本戦出場は逃した。
ヒコロヒーは、大喜利では「ずっと負けてるなと思ったことが無い」と悔しがった。

2021年ヒコロヒーは、初の冠番組「キョコロヒー」などテレビ出演が増えた。2021年7月ニホンモニター調査の「上半期ブレイクタレントランキング」では10位にランクインした。

さらに、同調査の2021年12月「ブレイクタレントランキング」の年間5位にランクインした。

ヒコロヒーは、「国民的地元のツレ」としてブレイクした。

2021年12月13日「女芸人No.1決定戦 THE W」は、ヒコロヒーにとって5年目で初の決勝進出であった。しかし、登場初戦で天才ピアニストに敗退した。

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ヒコロヒーの本名は?

ヒコロヒーは、言いたい放題のやさぐれ芸人のイメージであるが、本名は非公開だ。

ここでは、そんなヒコロヒーの本名についてご紹介する。

ヒコロヒーの本名は?実家は?

ヒコロヒーが本名を公開しない理由は、実家が有名財閥系で「迷惑をかけられない」から
という噂がある。

ヒコロヒーは、愛媛県松山市の出身だ。

愛媛県で財閥といえば、住友財閥が有名である。

住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が1691年に開発した愛媛県の別子銅山である。

住友財閥は、それまでにも秋田県の阿仁銅山、岡山県(備中)の吉岡銅山などを経営し幕府御用の銅山師となっているが、愛媛県の別子銅山は別格である。282年間にわたり銅を産出し、総産出量は銅地金として75万トンにもなる。

明治維新では銅山は幕府の財産であったことから、明治新政府の法令で住友財閥の莫大な銅備蓄を差し押さえられた。

この時、住友家の番頭広瀬宰平がその難局を乗り切り、住友家業経営の再建と近代化を行った。

ヒコロヒーの本名は、広瀬ひろこではないかという噂があり、しかも住友財閥初代総理人の広瀬宰平の子孫だというものだ。

しかし、これについてもネット上での話だけで根拠はない。

確かに、ヒロセヒロコ、ヒコロヒーは似ているが。

ヒコロヒーの本名については、もう一つ情報がある。

しかも、ちょっと信憑性があるのだ。事実であれば、非公開のナゾも推測できるのである。

本記事の後半「ヒコロヒーの本名非公開の意外な理由」でご説明する!

ヒコロヒーの芸名の由来は?

ヒコロヒーは、テリー伊藤との対談で「ちっちゃい時から、”ロ”とか”コ”とか、90度の角度の付いた文字が好きで。ロココとかコロコロとか何でもよかったんですけど、松竹芸能に入って、最初にライブに出る時に何か芸名を付けようと思って。たまたまヒコロヒーになりました。」と語っている。(「アサ芸プラス」より引用)

ヒコロヒーは、カタカナの特に角ばった文字が子どもの頃から好きだった。

ヒコロヒーは、はじめてのライブ出演に際して2秒で急遽決めた芸名だそうだ。

ヒコロヒーの本名非公開の意外な理由!?

最近ネットでは、ヒコロヒーの本名が「高須賀友紀」との情報もある。(「芸トピ」から引用)

ヒコロヒーは近畿大学文芸学部に入学しているが、ヒコロヒーが大学2年当時の近畿大学文芸学部舞台芸術専攻の2010年6月24日公演スケジュールに「高須賀友紀」演出の舞台公演日程が記載されている。(ヒコロヒーが松竹からスカウトされたのもこの年だ)

「高須賀」は全国でも珍しい苗字であるが、愛媛県は全国の「高須賀」姓の約半分の2000人ほどの方が現在住んでいる。

愛媛県は、「高須賀」姓の非常に多いところと言える。

ヒコロヒーの出身地である愛媛県松山市では、「高須賀」姓の方は現在162人である。

ヒコロヒーの本名が「高須賀友紀」であれば、すぐに実家は特定されてしまうだろう。

ヒコロヒーが本名を公開しない理由は、実家を特定されるのを恐れてではないかとも考えられる。

Twitterでもメッセージ内で「高須賀友紀」の記述があるのは、愛媛県出身者のツイートである。

しかし、ヒコロヒーの本名「高須賀友紀」説も、確証は今のところないが、「ヒコロヒーの大学は?」記事でさらに深掘りする。

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まとめ

今回は人気女性芸人、ヒコロヒーの本名、基本プロフィールについて深掘りした。

本名についての情報はいくつかあるものの、由来を含め確定的な情報は今のところ出ていない。

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Posted by media-freak